●1972年5月30日、「PFLP」のバックアップを受けていた「日本赤軍」による「ロッド空港乱射事件」が発生し、イスラエル側がベイルートのPFLP幹部2人へ郵便爆弾を送り付けて報復すると、これに激怒したPFLPのジョージ・ハバシュ議長は、ヤセル・アラファト議長率いる「ファタハ」を主流とするPLOに合流。

パレスチナ・ゲリラの暗殺チーム「黒い九月」をドイツのミュンヘンに派遣した。

 

 
(左)「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」の
ジョージ・ハバシュ議長 (右)
「PFLP」の旗

 

●「日本赤軍」の「ロッド空港乱射事件」から、約3ヶ月後にあたる1972年9月5日、

「黒い九月」のメンバー8人が、ミュンヘン・オリンピックを急襲。

オリンピック選手村にいたイスラエルのコーチと選手の2人を射殺し、残った9人を人質にすると、彼らはイスラエル共和国に投獄されている岡本公三ら234人の仲間を釈放するよう要求したのである。


●世界中のテレビがこの事件の生中継を本国に送り、ゲリラ側の要求を報道した。

世界の人々はドイツで受難したユダヤ人のイメージをダブらせて、イスラエル側に同情した。

 


人質とともに選手村に立てこもる「黒い九月」のメンバー

 

●断固たる態度で“妥協”を拒んだイスラエルのゴルダ・メイア首相は、この事件に関する全権限を対外諜報局「モサド」のツヴィ・ザミル長官に委ねた。

ザミル長官は直ちにミュンヘンに飛び、旧西ドイツ側の治安当局と緊急討議を行なった。

メイア首相からの全権委任と、「サベナ機ハイジャック事件」で人質を救った経験に支えられて、ザミル長官は旧西ドイツ側に、イスラエル特殊部隊「サエレト」に事件への対応を任せて欲しいと申し入れた。

しかし、ミュンヘン州当局は、イスラエル側の要求を退けた。

 


ドイツ(旧西ドイツ)の国旗

 

●結局、経験未熟で装備も不完全な旧西ドイツの狙撃隊員らが攻撃を開始し、最初の攻撃でパレスチナ・ゲリラ全員を射殺できなかったため、ゲリラ3人が生き残って銃を乱射。

手を縛られた人質たちは手榴弾を投げつけられ爆死し、滑走路のヘリコプター内に座っていた人質たちも全員射殺された。

最悪のパターンである。

 「黒い九月」のメンバーは8人のうち5人が射殺され、残りの3人は逃走を図るが逮捕された。

 


「黒い九月」の手榴弾によって爆破されたヘリコプター

 

●この事件の直後、イスラエル政府は、オリンピック選手団の安全確保に責任のある国内治安局「シン・ベト」の予防諜報部門のチーフを解任し、「対テロリズムの首相顧問」という新たなポストを作った。

一方、旧西ドイツ政府は、この事件を受けてドイツ連邦国境警備隊「第9対テロ部隊(GSG-9)」を設立した


●が、事件は新たな展開を迎える。

「ミュンヘン五輪襲撃事件」から5日後、まだ事件調査が続いている折り、ブリュッセル駐在イスラエル大使館のザドグ・オフィルは、「黒い九月」のメンバー1人に至近距離から狙撃されたのである。

彼は一命をとりとめたが、後に、彼は「シン・ベト」のオフィサーだったことが公表された。しかも犯人のアラブ人は、狙撃されたオフィルのケース・オフィサー(工作管理官)で、「シン・ベト」の二重スパイだったのである。



●更に「ミュンヘン五輪襲撃事件」から7週間後の1972年10月29日、

ダマスカス-フランクフルト間を飛ぶ「ルフトハンザ615便」が「黒い九月」のメンバー2人にハイジャックされ、人質となった乗客と交換に、ミュンヘン事件で逮捕された「黒い九月」のメンバー3人が釈放されたのである。

※ 旧西ドイツ政府は、イスラエル政府にはひと言の断わりもなく、即座にハイジャック犯たちの要求に応じ、刑務所にいる「黒い九月」のメンバー3人を釈放してしまった。


●旧西ドイツの刑務所から釈放された「黒い九月」のメンバー3人は、

そのままアラブ連合の国へ空輸され、彼らはゲリラ史上に残る快挙を成し遂げた「英雄」として、堂々とリビア入りを果たした。

 


リビアで解放されたあと記者会見を行なう
ミュンヘン襲撃を生き延びた「黒い九月」の3人

イスラエル政府は旧西ドイツが「黒い九月」の
3人をすぐさま釈放したことに驚き、激怒した

 

●これら一連の動きは、イスラエル政府にとって屈辱以外の何物でもなかった。

このまま黙って引き下がるはずがなく、イスラエル政府は直ちに報復に出た。