『昭和史からの警告―戦争への道を阻め』(船井 幸雄、副島 隆彦 著)より抜粋です。

最初に日本との関係を深めたのはロスチャイルド系でした。ロスチャイルド=三井の政界大番頭は内務卿の井上馨でした。それに対して三井総本家が見込んで任せた三野村利左衛門という人物がいました。この人が明治はじめの三井の大番頭です。三野村は、優れた幕府重臣だった小栗忠順の使用人だった人ですが、三井家をよく支えて幕末維新期を上手に切り盛りした。

ロックフェラー家は、西南の役をきっかけに三菱の岩崎弥太郎と組んで、明治10年には早くもロスチャイルド=三井と対抗する大勢力となっている。

ロスチャイルド=三井の次の大番頭は渋沢栄一です。渋沢は岩崎弥太郎より五歳年下です。弥太郎は明治18年に45才の若さで死んで、弟の弥之助、弥太郎の長男・久弥と続いていきます。渋沢は91歳まで生きて約500もの会社の設立に関わります。

渋沢が第一国立銀行(のちの日本銀行)を拠点としてつくった主な会社は、王子製紙、東京海上保険、東洋紡、日本郵船、東京ガス、サッポロビール、帝国ホテル、石川島播磨重工業、渋沢倉庫……等々です。始まりは国営(官営)企業だった大会社の多くを渋沢がつくった。つまりはほとんどはロスチャイルド=三井系企業と考えればいい。東京湾岸にずらりと横浜の方までつづく倉庫群が建っていた。

幕末に幕臣だった26歳の渋沢は、幕府使節団に加わって御用商人としてフランスに渡っています。このとき渋沢は銀行家のフリュリ・エラールから銀行業というもの、近代の金融業というものを学びます。このエラールのボスがアルフォンス・ド・ロスチャイルド伯爵で、フランス・ロスチャイルド家の総帥です。

渡仏中に日本で大政奉還があって幕府が倒れた。帰国した渋沢は、明治維新後、明治新政府に大蔵卿として招かれます。そして第一国立銀行を設立し、多くの会社を興した。渋沢の第一銀行と三井銀行が一緒になって、やがて日銀が誕生します。

だから日銀は、伝統的に三井ロスチャイルドの牙城なのです。

さて、本書の中で、昨年10月25日と26日にアメリカのシンクタンクAEI所長クリストファー・デムス氏と、日本側から安倍普三氏、前原誠司氏、外務省の鶴岡公二氏、防衛庁の山口昇氏、そして元ワシントン公使の阿川尚之氏らがキャピトル東急に集まって、日本を中国との戦争に引きずり込むスケジュールが話し合われたとしていますが、それが本当なら大変なことです。


松方が中央銀行案を推進するのは、明治10年に渡欧してフランス蔵相レオン・セーに会ってからである。

レオン・セーは、第一に日本が発券を独占する中央銀行をもつべきこと、第二に、そのさいフランス銀行やイングランド銀行がその古い伝統ゆえにモデルにならないこと、したがって第三に松方が、最新のベルギー国立銀行を例としてこれを精査することを勧めた。

ネイサン亡き後のロスチャイルド家の世襲権はパリ分家に移り、ジェームズ・ロスチャイルドがロスチャイルド家を統括する第三代当主とされ、その後を息子のアルフォンス・ド・ロスチャイルドが継いで第四代当主となっていた。

このアルフォンス・ド・ロスチャイルドの「使用人」ともいえるのが、前出のフランス蔵相レオン・セーなのである。

レオン・セーは、アルフォンスの招きでまず北部鉄道会社に入り、まもなく同社の役員に推され、さらにサラゴサ鉄道などロスチャイルド傘下のいくつかの会社役員にもなった。第三共和制の時代を迎えると、彼は政治家としての華々しい活動に乗り出し、何度か蔵相の座にすわって、金融ブルジョワジーの代弁者として、また大鉄道会社の利益を守る弁護士として、大きな影響力を築きあげた。

レオン・セーはロスチャイルド家の「使用人」であり「番頭」なのである。ゆえに、レオン・セーの示唆によって日本に中央銀行を設立した松方正義は、フランスのロスチャイルド家に見込まれて日本に中央銀行設立案をたずさえて帰国し、権力の中枢についた人物であることが分かるのである。



日銀の役割は、さきに述べたように不換紙幣、つまり政府紙幣および国立銀行紙幣の償却である。「償却」とはふつう会計の帳簿から消すことであるが、このときの「しょうきゃく」は政府紙幣および国立銀行紙幣を本当に「償却」した。経済学的には紙幣を償却すればマネーサプライの減少となり、市中に出回るお金が減り、すなわち不景気となるのは当然のことである。これが世にいう「松方デフレ」である。不換紙幣に代わって正貨(銀)兌換券である日本銀行券を流通させることが、松方率いる日銀の目的である。

松方はそのために国立銀行条例を改正し、国立銀行から貨幣発行権を奪っている。これが日本の金融史上、重要なポイントである。貨幣発行権を奪われた国立銀行は期限内に私立銀行に転換させられている。日銀券の流通により、江戸時代の「藩札」以来の地方通貨は姿を消し、日本の金融は日銀の支配下に入ったのである。

日銀券の流通前の日本経済はインフレ基調であり、物価は上がり続けていた。日銀券流通後のデフレ政策は不況政策であり、当然国民には不人気な政策である。

松方は、この政策を開始するにあたって、太政大臣三条実美と右大臣岩倉を引き連れて明治天皇に拝謁し、途中で政策の転換を行なわないという保証をとっている。

しかし、デフレはそう長く続かず、景気は次第に回復してくるのである。この間の事情を経済史学者の室山義正は以下のように分析している。

①デフレ政策により、輸出を促進し貿易収支を改善した。

②朝鮮事件を契機とする、軍事費の増大が財政支出を増やし、景気刺激となった。

③銀貨と紙幣の価格差が縮まり、退蔵されていた正貨が市中に復帰し通貨供給量が増大した。

また、元日銀理事である吉野俊彦は『これがデフレだ!』の中で、上記①と③の要員に加えて金銀の交換比率の変化を挙げている。明治4年には1:16だった金と銀の交換比率が、明治30年になると1:30となり、銀の値打ちが下がり、結果として銀貨の量が相対的に増大してリフレーション政策をやったのと同じ効果をもたらしたと論じている。

以上の説に加えて筆者は、日銀は中央銀行の「信用創造」政策、つまり銀行の貸出量を増大する政策を実行したと考えている。

『例えば、ある銀行が中央銀行に預ける準備金が一億円あるとしたら、準備率を1%としたときに、その銀行の貸出し可能な額はその100倍である100億円にもなる。このまるで手品のような政策こそ信用創造であり、銀行家たちの「秘策」である。

松方はロスチャイルドから、この「秘策」を伝授されて実行したのである。』

銀行による貸出量操作こそが、一国の経済を好況にも不況にも操作できるのである。「中央銀行」という仕組みはこのように恐ろしいまでに強大なシステムである。

国家によって独占された一金融機関が一国の経済を操作していいはずはない。経済学の教科書はみな「中央銀行は国のために長期的な視野に立って中立的な金融政策を実行している」などと呑気に書いているのはおかしいのである。中央銀行はいざとなれば不況を起こすことのできる恐るべき機関なのである。

ハイエクの初期の経済論文「貨幣理論と景気循環」には以下のような記述がある。

・貨幣量の増加をもたらす三つの方法の中で最も重要なのは現在の観点から見て銀行による信用創造である。

・恐慌の発生には、銀行が信用量の拡大を止めるだけで十分である。そうすれば遅かれ早かれ、恐慌は発生する。

このように、中央銀行は一国の経済の好況不況を人為的に操作できるのである。



一般銀行から貨幣発行権を取り上げて、中央銀行にその機能を集中するという政策スキームは、1844年のイギリスのピール条令に見ることができる。

ピール条令は正式には「イングランド銀行設立特許状の修正法」という。この修正法によって、イングランド銀行以外の民間銀行は、自分たちが発行していた流通通貨の額を増やすことができなくなり、期限が来れば貨幣を発行する特権は消滅することになった。

これはまさに日本銀行の設立により、国立銀行から貨幣発行権を奪うスキームと同じであることが分かる。

貨幣発行権を取り上げて、中央銀行が設立される政策スキームは、アメリカにおいても繰り返される。1913年にアメリカで連邦準備法が制定されて連邦準備銀行(FRB)が設立されたスキームが、まさにこのスキームなのである。

この中央銀行による貨幣発行権の独占こそが、金融独占資本による、金融支配のための道具となっているのであり、この状況はいまでも連綿と引き続いている。

金融を支配するものが世界の本当の支配者なのであり、それがヨーロッパやアメリカの国際金融財閥や国際銀行家なのである。そのために必然的に、そうした国際銀行家の日本側のカウンターパートこそが日本の最高実力者「日本国王」になるのである。松方正義はロスチャイルド家と関係が深く、高橋是清はクーン・ロープ商会のジェイコブ・シフと親しく、井上準之助はモルガン商会のトマス・ラモントと懇意であった。

このように、「日本国王」といえども世界の実力者からみれば多くの国の中の代表者のひとりに過ぎない。その関係は宗主国と属国の関係である。そして、それは現代の世界においてもまったく変わっていないのである。