●1987年12月8日、イスラエルの占領が続く地中海沿岸のエジプトとの国境にあるガザ地区で、イスラエルのタンクローリー車が突入してきて、パレスチナ人4人が死亡、7人が重傷を負った。

この事件は占領され続けているパレスチナ人のたまりたまった屈辱の思いを爆発させる引き金となった。


●翌日、ジャバリア難民キャンプから自然発生的なデモが始まった。

それが数日後には、大規模な抗議行動に発展し、ヨルダン川西岸にも飛び火し、1人のパレスチナ少女が射殺されたのを機に、イスラエルへの抵抗運動「インティファーダ(民衆蜂起)」は一挙に全占領地に拡大した。

 

 
1987年12月、イスラエルへの抵抗運動「インティファーダ(民衆蜂起)」が起きた

 

●「インティファーダ」が始まる以前の反イスラエル闘争は、PLO(パレスチナ解放機構)の下に編成されたパレスチナ・ゲリラによる占領地外の解放闘争の形をとっていた。

ところがPLOは70~71年のヨルダン内戦、75~76年のレバノン内戦を経て、82年のイスラエル軍のレバノン侵攻で壊滅的な打撃を受け、レバノンから撤退を余儀なくされた。

PLOの力が弱まり、一方でイスラエルの占領が長期化する中で、出口のないパレスチナ人の若い世代の不満は絶望的に変わっていった。それが「インティファーダ」の誕生につながっていったと言われている。

 

 
「インティファーダ」は「石の革命」と呼ばれた

 

●「インティファーダ」の中心となったのは10代20代のパレスチナの若者たち。そして子供たちである。

ほとんどがイスラエルの占領の中で生まれ、育った世代である。闘争手段は石一つ。戦術を石に限定しているところが、この運動を広げた。

これはやがて「石の革命」と呼ばれるようになる。


●イスラエル兵は催涙ガスだけでなく、実弾も発射した。

多くはゴム弾だったが、そのゴムの中心部は鋼鉄の塊だったりした。そのため、犠牲者が続発した。

犠牲者がいくら出ても、完全武装のイスラエル兵に石だけで立ち向かうパレスチナ人の姿が、世界に報道された。そして占領地の住民を弾圧するイスラエル軍と、その占領に反対して抵抗運動を繰り広げる果敢なパレスチナ人、という印象が世界中の人の心に強く刻まれた。

 


イスラエル兵は催涙ガスだけでなく、実弾も発射した

 

犠牲者をいくら出しても闘いが終わらなかったのが、「インティファーダ」の特徴であった。

当時の国防大臣ラビン(のちの首相)のインティファーダ対策は熾烈を極めた。

「石を投げる者の手足を折れ!」と命令したことは、広く知られている。

 

 
(左)イツハク・ラビン (右)
イスラエルの国旗

1984年から1990年までイスラエルの国防大臣を務めた


  
多くの子どもたちが死んだ

 

※ 1990年11月時点の犠牲者は、死者900人、銃撃による重傷4万9000人、打撲傷2万4000人、手足の骨折1万6000人、流産3500人、催涙ガスの負傷者3300人で、投獄されたパレスチナ人は総数2万5000人であった。


●なかなか終結しない「インティファーダ」に手を焼いたイスラエル政府は、占領地の封鎖で対抗した。

それまでに占領地の経済は完全に破壊され、マヒし、パレスチナ人労働者はイスラエル経済に吸収されていたが、それを封鎖されたときのパレスチナ人の打撃は大きかった。貧困が加速された。更にパレスチナ指導者の国外追放も続いた。


●こうした状況の中で、イスラム原理主義のスンニ派武闘組織「ハマス」や「ジハード」が勢力を伸ばして来た。

もとはイスラエルがPLOに対抗させるために、これらのイスラム勢力の後押しをして育てたという事情があったのだが、やがて「ハマス」などは、民衆の支持を得た大きな運動となって、イスラエルの管理下を離れた。

 

  
(左)「ハマス」の創設者シェイク・アフメド・ヤシン
(中央)「ハマス」のシンボルマーク (右)「ハマス」の旗

 

●イスラエルは1992年12月、イスラエル将校誘拐と殺害への報復として、「ハマス」の活動家413人をレバノンに追放した。

イスラエルによる弾圧は更にエスカレートし、1993年4月には、「ハマス」の活動家を追っていたイスラエル軍兵士200人が、ガザのある地区を包囲し、30世帯の家をロケット弾で完全に破壊した。


●しかし、イスラエル政府がどのような手を用いても、「ハマス」を中心とした抵抗運動は拡大するばかりだ。

 

 
イスラエルとの対決姿勢を強める「ハマス」のメンバーたち