●第3次中東戦争(1967年)に敗北するまで、「PLO(パレスチナ解放機構)」は、本部をヨルダンに置き、全ての活動をここから行なっていた。

 


「PLO(パレスチナ解放機構)」は、エジプトのナセル大統領の
指導の下に、パレスチナ解放を目指す諸組織をまとめる
上部組織として、1964年に設立された



「PLO(パレスチナ解放機構)」の旗

この旗は、1964年の設立と同時に制定された。
この旗は「アラブ独立旗」の色の順序を変えたもので、
赤・黒・白・緑はともにアラブを象徴する色である。

 

●しかし、1968年の夏には、イスラエルにゲリラを送り込む唯一のルートであったヨルダン川の西側は、イスラエル治安局「シン・ベト」によって完全に封鎖されてしまった。結果として、ヨルダンにいたPLOゲリラ兵士たちは動きが取れぬ状態に追い込まれた。

彼らはそのうっぷんをヨルダン国内に向け始めた。そして資金集めのため、勝手に税金を取り立てたり、通行税を設けたりして、国家の中の国家を作り上げるような状態をもたらしてしまった。

 


イスラエル(パレスチナ地方)の地図

 

●ヨルダン国王フセインは、それまで一貫してPLOを支持していた。1964年にPLOが発足した時、真っ先に訓練基地を提供したのも彼であった。

しかし、PLOがヨルダン国内で横暴な態度を取り始めると、フセイン国王はPLOに対して、ヨルダン国内での行動を慎むよう繰り返し警告。しかしPLOはそれを無視し、益々その活動をエスカレートさせていった。

 


ヨルダンの国旗

赤い三角形の中にある「白い星」は角が7つあるが、
これは「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはその使徒
 なり」という祈りの言葉が全部で7語あることからきている。

 

●ヨルダン国王を一番悩ませたのは、パレスチナ・ゲリラに対するイスラエル軍の執拗な「報復攻撃」である。

1965年から1977年まで13年間に、全部で8477件のパレスチナ・ゲリラによる対イスラエル攻撃が記録されているが、実にそのうちの55%が1969年と1970年の2年間に集中しており、そのほとんどがヨルダン領から出撃したものだった。

その結果、当然のことながら、イスラエルの報復の矛先もまた、ほとんど全てがヨルダン領に向けられたのであった。

 


パレスチナ・ゲリラに対するイスラエル軍の執拗な
「報復攻撃」は、ヨルダン政府を大いに悩ませた

 

●ヨルダン政府は、なんとかしてパレスチナ・ゲリラ活動を抑制しようとしたが、PLOとヨルダン政府の関係は急速に悪化し、PLO内部の過激派のPFLPやDFLPは、フセイン国王を退位させ、ヨルダンに民族的民主政権を確立すべきだと公然と主張し始める始末だった。


●1970年9月、ついにヨルダンのフセイン国王は堪忍の緒を切り、「PLO撲滅」に踏み切った。

彼の軍隊の中でもエリート部隊を構成するのが「ベドウィン族兵士」であるが、長い間PLOの勝手な振る舞いを苦々しく思っていた彼らは、喜んでフセイン国王の命令を実行した。

彼らの手によって虐殺されたPLO兵士は5000人以上にのぼる。彼らの手を逃れた者は、我先にヨルダン川を渡りイスラエル軍に降伏した。


●このフセイン国王による「PLO虐殺」が、

俗に言われる「ブラック・セプテンバー(黒い九月)事件」である。

 


ヨルダンのフセイン国王

PLOがヨルダン国内で横暴な態度を
取り始めると、フセイン国王はPLOに対して、
ヨルダン国内での行動を慎むよう繰り返し警告。
しかしPLOがそれを無視すると、フセイン国王は
ついに堪忍の緒を切り、「PLO撲滅」に踏み切る。

このフセイン国王による「PLO虐殺」が、俗に言われる
「ブラック・セプテンバー(黒い九月)事件」である。
この事件は、1970年9月に起きた。
(「ヨルダン内戦」とも呼ばれている)

 

●こうしてイスラエルの東に位置するヨルダンという理想的な活動基地を失ったPLOは、イスラエルの北に位置するレバノンに移動し始めた。

しかし、対イスラエル・ゲリラ戦が限界に直面しつつあるのは事実であった。アラファト率いる「ファタハ」のライバルであるPFLPはこれをいち早く感じ取り、その戦略の主軸を海外でのテロ活動に切り換えた。他のグループも続々とPFLPに続いた。対イスラエル・ゲリラ戦を提唱していた「ファタハ」のPLO内部での支持率は急速に低下して、脱退して他のグループに加わるメンバーも多かった。


●このままの状態が続けばPLO内でのリーダーシップを失うと見たアラファトを始めとする「ファタハ」の幹部たちは、戦略切り換えの必要性に迫られた。しかし、その活動をテロではなく対イスラエル・ゲリラ戦に限定していた手前、そう簡単に切り換えるわけにもいかない。「ファタハ」のイメージ・ダウンにつながるためだ。

このジレンマの答えとして出されたのが「極秘テロ・グループ設立」だった。

そしてそのグループの名称は、かの憎むべきフセイン国王の裏切り行為にちなんで「ブラック・セプテンバー(黒い九月)」と名付けられたのである。

 


ヤセル・アラファト

レバノンで活動を始めたPLOの
最大派閥「ファタハ」は、対イスラエル闘争
の行き詰まりから、過激な活動を行なうための
極秘のテロ組織を結成。そのグループの名称は、
かの憎むべきフセイン国王の裏切り行為にちなんで
 「ブラック・セプテンバー(黒い九月)」と付けられた。

 

●「黒い九月」が最初に実行したテロ行為は、1971年11月28日にカイロを訪れていた、ヨルダン首相暗殺だった。

ヨルダンに復讐を果たした「黒い九月」は、この後、「PFLP」や「サイカ」の向こうを張って、派手な「国際テロ」活動に手を染めていったのである……。