●「パレスチナ解放」を目指す諸組織は、1950年代末から60年代初めにかけて、ペルシア湾岸諸国やエジプトやレバノンで働いていたパレスチナ人、更にヨーロッパに留学していたパレスチナ人学生の間で組織された。

これらのゲリラ組織はどれもイスラエルの殲滅を目標として掲げていたが、イデオロギー的基盤は多様で、新左翼的な過激派からアラブ民族主義を強調する保守派まであった。しかしどの組織も、メンバーは自らを「フェダイーン(一身を犠牲にして戦う戦士たち)」と等しく呼んでいた。


●これらの組織の中で指導的な役割を持つようになったのは、「ファタハ」という組織である。

これは1950年代末にエジプトに留学していたパレスチナ人学生の間で組織された。「ファタハ」はヤセル・アラファトの指導下で力を伸ばした。エルサレムの名門フセイン家出身のアラファトは別名をアブ・アンマールといい、カイロ大学卒業後エジプト軍予備将校となり、クウェートで技師として働いていたこともある。

 


ヤセル・アラファト

 

●ちなみに「ファタハ(FATEH)」という名前は、多くの議論の後で決められた凝った名前だった。それはまず「パレスチナ民族運動」というアラビア語の頭文字を逆に読んだものだった。と同時に単語としては「征服」「勝利」「ものごとの始まり」を意味し、更にコーランの最初の詩の名前でもあった。


●ファタハを代表するパレスチナ人武闘組織は急速に力をつけていった。

エジプトのナセル大統領は「アラブの統一こそパレスチナ解放への途」と主張していたが、これに対しアラファト率いるファタハ・グループは「パレスチナの解放こそアラブ統一への途」と主張し、周辺のアラブ諸国と対立していた。アラブ諸国の指導者にとれば、彼らを無秩序のままに放置しておくことは危険だった。

そこで1964年、エジプトのナセル大統領の指導の下に、パレスチナ解放を目指す諸組織をまとめる上部組織として「PLO(パレスチナ解放機構)」が設立された。このPLOが設立された背景には、アラブ諸国の指導者たちが地下に潜ったパレスチナ人武闘組織を自分たちの管理の下に組織化しようとする試みがあった。初代議長にはアフマド・シュケイリが就任した。

 


PLOの初代議長アフマド・シュケイリ


 

●PLOの誕生はパレスチナ人たちにとって、画期的な出来事だった。

1948年以来、パレスチナ人たちは、アラブ世界の中ですら、たんなる難民としてしか扱われていなかった。パレスチナの土地をイスラエルから取り戻すという「アラブの大義」も、エジプトを中心としてアラブ諸国の共同責任という形で考えられており、肝腎のパレスチナ人たちは、なんの役割も与えられていなかった。

しかるに今や、パレスチナ人たちは、PLOという形で、アラブ世界に市民権を得ることになったのである。いわばPLOは領土を持たないパレスチナ難民たちの“国家”のような存在となったのである。

 


「PLO(パレスチナ解放機構)」の旗

この旗は、1964年の設立と同時に制定された。
この旗は「アラブ独立旗」の色の順序を変えたもので、
赤・黒・白・緑はともにアラブを象徴する色である。

 

●PLOの設立と同時に、PLOの議会にあたる「パレスチナ民族評議会(PNC)」が開催され、パレスチナ人の憲法ともいうべき「パレスチナ民族憲章」が採択された。

この憲章は、パレスチナ全土を対象として、パレスチナ民主国家を創設することを記載していた。パレスチナ民主国家が創設された暁には、アラブ人もユダヤ人も同等の権利をもってパレスチナに住むことが許されるはずだった。

しかし住むことを許されるユダヤ人は、1917年のバルフォア宣言以前からパレスチナに住んでいた人達に限られていた。更にPLOは、その民族憲章で、「イスラエル共和国」の存在そのものを完全に否定していた。その後イスラエル政府が90年代初頭に至るまで、執拗なまでにPLOを交渉相手と認めなかったことの原点はここにある。


●PLOの軍事組織はエジプト、シリアおよびイラクの指揮下に入ることになっていたため、パレスチナ人による“自主的な武力闘争”の実行を目標にしていたファタハ・グループは、ナセル主導によって作られたPLOに対し敵意を抱いていた。PLOが自分たちの活動資金源を脅かし始めたことも気に食わなかった。このまま妥協していると、自分たちの活動が質・量ともに骨抜きにされる恐れがあった。

そこでアラファトは自分たちの存在をアピールするために、1964年12月31日から対イスラエル武力闘争に乗り出した。最初は輝かしい戦果を挙げたとは言い難かったが、政治的には大きな宣伝価値を持った。ファタハは武力闘争を行なうことによって、組織としての基礎を固め、他の競争相手に決定的な差を付けたのである。

1965年を通じて、ファタハのゲリラ活動は成功したものだけでも39回に及んだ。パレスチナ解放のための具体的なアクションを起こしたファタハの人気は、パレスチナ人の間で急速に高まっていった。


●1967年の第3次中東戦争(6日間戦争)でアラブ諸国は手ひどい打撃を受けたが、この戦争の惨めな敗北は、「アラブの大義」を掲げるナセル大統領の権威を決定的に傷つけ、同時にその傀儡だった初代PLO議長シュケイリの立場を著しく悪化させた。

結局シュケイリはPLO内部からの突き上げのために退陣を迫られ、議長を辞任。第2代PLO議長にヤヒア・ハマウダが選任された。

 
●パレスチナ解放を目指す各組織は、アラブ諸国軍を介しての郷土解放というプランに失望し、独自の武力闘争を進めることを決意。彼らはヨルダンとレバノンのパレスチナ人難民キャンプに根を張って多くの支持者を集め、ソ連やアラブ急進派諸国から援助を受けて組織力と戦闘力をつけていった。

例えば、「サイカ」はシリアと、「ALF(アラブ解放戦線)」はイラクと結び付いた。この他、「PFLP(パレスチナ解放人民戦線)」、「DFLP(パレスチナ解放民主戦線)」などが共産圏諸国に結び付いた。「ファタハ」はアラブ民族主義を強調し社会主義を唱えなかったので、サウジアラビアや湾岸諸国などのアラブ保守派の陣営からも援助を受けることができた。


●こうして第3次中東戦争での大敗北を境にして、パレスチナ・ゲリラの対イスラエル軍事作戦は、むしろ急増し、過激化し、活動舞台が国際的なものになっていった。

パレスチナ・ゲリラのテロ事件は1967年には145件にすぎなかったのに、1968年には789件、1969年には2390件に増加。特にこの頃、過激なゲリラ活動を最も盛んに行なっていたのは、マルクス・レーニン主義者のジョージ・ハバシュ議長率いる「PFLP」だった。

しかし「PFLP」の無差別テロは激しい内部抗争を呼び起こし、分裂していった。

 

 
(左)「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」の
ジョージ・ハバシュ議長 (右)「
PFLP」の旗

 

●アラファト率いる「ファタハ」はPLO内部での発言力を次第に高め、1969年2月のカイロにおける第5回パレスチナ民族評議会では、「ファタハ」と「サイカ」が連立を組み、代議員の過半数を占めた。この結果、アラファトが第3代PLO議長に就任。これ以降、PLOはそれまでのライバル、「ファタハ」に支配されているのである。

1973年の第4次中東戦争後、PLOは国連を中心とした外交分野での著しい成功によって、世界各国から政治的認知を引き出したため、ゲリラ活動は減少する傾向を示した。日本を含めた欧米先進諸国がPLOを政治的に認可した理由は、アラブ解放団体のテロ活動を封じようとしたからであったが、同時に第4次中東戦争の際にPLOの呼びかけでアラブ産油国がとった石油禁輸策による「オイル・ショック」の再発を防ごうとしたからでもあった。


●1974年10月にモロッコのラバトで開かれたアラブ首脳会議で、アラブ諸国の指導者はPLOを「パレスチナ人の唯一の正統なる代表」として認めた。更に同年、国連はパレスチナ人の自決とPLOを承認した。また、石油危機によって途方もないオイル・マネーを手にして国際的発言力を高めたサウジアラビアはPLOを強力に支持した。

こうしてアラブ世界で正式に認知されたPLOは、その後も外交活動を強化し、国連へのオブザーバー派遣、総会でのアラファト演説、「シオニズムは人種差別」とする決議など、その主張に支持を得るとともに、世界各地に100カ所を超すPLO代表部や事務所を開設するに至った。


●しかし、PLOは80年代半ばのレバノン戦争でイスラエルに大敗北してから“穏健路線”を明確にし始める。

軍事的に弱体化したアラファトは外交的にPLOの立て直しを求められ、ヨルダンなどの保守派勢力の意向にも耳を傾けざるを得なくなっていたのである。


●1988年11月15日にアルジェで開催された「第19回パレスチナ民族評議会(PNC)」で「パレスチナ独立宣言」が採択された。それはパレスチナの地を領土とし、エルサレムを首都とするパレスチナ国家の独立を宣言したものであった。

更にアラファトは12月の国連総会の場で、アメリカ政府が提示していた「キッシンジャーの3条件」を受け入れ、公式にイスラエルの承認とテロの放棄を宣言した。


●しかし、この後に起きた湾岸戦争で、PLOはイラクのフセイン大統領を支持したため、更に苦しい選択を迫られることになった。湾岸諸国で働いていたパレスチナ人は追放され、彼らの財産もPLOへの税金も没収され、サウジアラビアやクウェートからのPLOへの資金援助も打ち切られた。PLOが深刻な財政危機に直面し始めたのはこの時からである。

PLOは80年代後半のインティファーダによる輝かしい勝利にもかかわらず、そして世界の119カ国がパレスチナを承認しているという外交的な勝利にもかかわらず、何の見返りもなしにイスラエルの存在の承認とテロの放棄を宣言させられ、更に湾岸戦争での失策も重なり、アメリカに大幅な譲歩をすることになったのである。


●ところで、かのソ連は原則的にパレスチナ人とアラブの強硬派諸国の側に立ってきたが、湾岸戦争直後にソ連が崩壊すると、中東のバランスは大きく変わった。共産主義の脅威が消え去った代わりにイスラム復興を唱える「イスラム原理主義」が新たな脅威として中東全体に台頭してきたのである。

イランは別格にしても、サウジアラビア、エジプト、アルジェリア、ヨルダン、レバノンと、それぞれの中で強力なイスラム運動が展開してきた。ヨルダンでは1990年にイスラム同胞団が第3の政党になり、5人の閣僚を擁するようになった。レバノンでも親イランのシーア派民兵組織「ヒズボラ」が14の議席を獲得し、イスラエルを脅かしている。サウジアラビアやクウェートは湾岸戦争のあとPLOへの援助を中止する代わりに、スンニ派武闘組織「ハマス」支援に乗り出した。急速に力を付けた反アラファトのハマスはPLOの「パレスチナ民族評議会」の15%の議席を要求するようになっている。


●現在、これらのイスラム原理主義勢力を食い止めるのはPLOしかいない。アメリカやイスラエルにとって強いPLOは困るが、弱すぎてもまずかった。

湾岸戦争後により鮮明となった一連のPLO活用には、イスラム原理主義勢力を封じ込めてこの地域を管理したいアメリカとイスラエルの利害が一致したという要因が隠されていることを見逃すことはできまい。