●ところで、中国大陸において「サッスーン商会」と並んで二大商社の名を馳せたのは、「ジャーディン・マセソン商会」である。


この会社は、イギリス系商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、1832年に中国の広州に設立された貿易商社である。

設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で、「アヘン戦争」に深く関わった。

 

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(左)ウィリアム・ジャーディン (右)ジェームス・マセソン

彼らは1832年、中国の広州に貿易商社
 「ジャーディン・マセソン商会」を設立した。

 

[ジャーディン・マセソン商会」のシンボルマーク.png
↑「ジャーディン・マセソン商会」のシンボルマーク

この会社の設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶の
イギリスへの輸出で、「アヘン戦争」に深く関わった。
(1841年に本社を香港に移転した)。



●この「ジャーディン・マセソン商会」は、日本では、幕末・明治期の重要人物であるトーマス・グラバーが長崎代理店(「グラバー商会」)を設立したことで知られている。

横浜にも、1859年に英商ウィリアム・ケスウィックが支店を設立。商館は地元民から「英一番館」と呼ばれていた。

 

坂本龍馬.png 武器商人トーマス・グラバー2.png 『大英帝国の〈死の商人〉』横井勝彦著(講談社).png
(左)坂本龍馬 (中央)武器商人トーマス・グラバー
(右)『大英帝国の〈死の商人〉』横井勝彦著(講談社)


トーマス・グラバーは、1859年に英国から上海に渡り
「ジャーディン・マセソン商会」に入社。その後、開港後
まもない長崎に移り、2年後に「ジャーディン・マセソン商会」の
長崎代理店として「グラバー商会」を設立。貿易業を営みながら、
薩摩、長州、土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売した。

幕末維新期の日本では、多くの外国人貿易商が諸藩への洋銃売り渡し
に関わっていたが、その中でも英商グラバーの販売量は突出していた。

彼はのちに「三菱財閥」の岩崎家の後ろ盾となり、キリンビールや
長崎造船所を作った。日本初の蒸気機関車の試走、高島炭鉱の
開発など、彼が日本の近代化に果たした役割は大きかった。

1908年、グラバーは「勲二等旭日重光章」という勲章を
明治天皇から授けられ、この3年後(1911年)に
亡くなった。墓は長崎市内にあり、邸宅跡が
「グラバー園」として公開され、長崎の
観光名所になっている。



●ジャーディン・マセソン・グループは、今でも「マンダリン・オリエンタルホテル」を経営し、14ヶ国に26の高級ホテルを展開しており、現在もアジアを基盤に世界最大級の貿易商社として影響力を持っている。
 


 



■■追加情報: 『阿片の中国史』
 


●中国人の父と日本人の母を持つ譚ろ美さん(ノンフィクション作家)が、「アヘン戦争」についての本を出した。


本のタイトルは『阿片の中国史』(新潮社)である。
 


●彼女は「アヘン戦争」について、この本の「序章」の中で次のように書いている。


「中国の近代は阿片(アヘン)戦争という理不尽な外圧で幕を開けた。4隻の黒船が近代を告げた日本とは大きな違いだ。この欧米列強との出会いの差が、その後の両国がたどった道の隔たりであり、消すことのできない大きなしこりを残した原因にもなっているにちがいない。

阿片という『麻薬』によって、めちゃくちゃに引っかき回された国が、中国以外にあっただろうか? 一国まるごと“阿片漬け”にされた国は、中国だけなのだ。

 

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『阿片の中国史』
譚ろ美著(新潮社)



●この本は「アヘン戦争」の実態だけでなく、20世紀後半の中国共産党とアヘンの知られざる関係についてや、アヘンと「サッスーン家」の関係についても詳しく言及されており、なかなか面白い本である。

参考までに、この本の中から、興味深い部分をピックアップしておきたいと思う。

以下、抜粋。

※ 「香港上海銀行(HSBC)」の画像とキャプションは、当館が独自に追加


◆ ◆ ◆


ひなびた漁村だった上海は、南京条約による開港で、一夜にして大都会になった。 〈中略〉


欧米の阿片(アヘン)商人たちを中心に外国人定住者が増え、外国租界は異国情緒にあふれた町になったのだ。 〈中略〉

上海が開港したばかりの1842年の人口は20万人だったが、1900年前後には100万人になり、1930年までに300万人に膨れ上がった。

イギリスその他の国からなる共同租界では、90%が中国国内の移住者で占められ、フランス租界の人口も5万人から45万人へと爆発的に増えた。



1837年、中国には外国の商社が39社あり、その中で「ジャーディン・マセソン商会」は最大の規模を誇ったが、これと並んで二大商社の名を馳せたのは、上海に拠点を置いた「サッスーン商会」である。

 

21世紀を生きる女性たちにとって、サッスーンと聞いてすぐに思い浮かぶのは、ヘアースタイルの「サッスーン・カット」ではないだろうか。サッスーン社の社長はビダル・サッスーンといい、美容院で販売されている高級シャンプーなどの商品も幅広く生産している。(※
ビダル・サッスーンはロンドン生まれのユダヤ人)。


このサッスーン氏と同じ一族かどうかわからないが、「サッスーン商会」を創業したデビッド・サッスーンは、イギリスのユダヤ系名門の出身で、もとはバグダッドの豪商だったが、1830年にバグダッドの総督がユダヤ人を追放したため、ペルシアへ逃れた。
 


 


折から戦争状態にあったペルシアでは、特産品の阿片の取引が止まり、値がつかない状態になっていたので、サッスーンは底値で買い入れ、生産中の阿片も予約購入した


阿片が収穫される頃、戦争が終わり、阿片の値段は再び高騰して、サッスーンは巨額の利益を手にした。その資金を元手に「サッスーン商会」を創設したという。

勿論、取引商品は主として阿片であった。

やがてイギリスがインドに設立した「東インド会社」で営業許可を得た「サッスーン商会」はボンベイに拠点を据えて阿片貿易に乗り出し、香港にも開店して「沙遜(サッスーン)洋行」と名乗った。
 



◆阿片売買のために、上海へ先陣を切って乗り込んだのも「サッスーン洋行(沙遜洋行)」だった。


1845年、上海の目抜き通り(現在の江西路と九江路の交差点)に支店を開いた。

当初、上海の阿片貿易の20%を占めるほどの大取引に携わり、人手が足りずに14人もの親族を呼び寄せ、業務拡大した。
 


 


1864年、創業者のデビッド・サッスーンが亡くなると、「サッスーン洋行」は長男が引き継ぎ、次いで次男が独立して「新サッスーン洋行」を開業した。


新旧の「サッスーン洋行」は、互いに協力しながら、インドのケシ畑の“青田買い”をしたり、独占買い付けをしたりしながら、アジア全域に幅広いネットワークを築いた。 〈中略〉

1870年代には、「サッスーン洋行」はインドの阿片貿易の70%をコントロールするまでに成長するのである。



「ジャーディン・マセソン商会」「サッスーン洋行」──。


この2つの巨大商社を筆頭にして、その後も続々と貿易商社が進出してきた。

「デント商会(宝順洋行)」、「ギブ・リビングストン商会(仁記洋行)」、「ラッセル商会(旗昌洋行)」などのイギリスとアメリカの商社がいる一方、中小の地元商社やアジアからの商社などが雨後の竹の子のように増え続けた。

不確実な数字だが、外国の商社は1837年に39社だったものが、20年後には約300社に増え、1903年には、なんと600社以上にものぼったという



◆欧米の商社が業務を拡大し、取引金額が増えるに従い、なにより頭を悩ませたのは資金の安全な輸送方法だった。イギリス流の解釈では、「イギリスが中国から資金を取り戻す」ための安全で迅速な手段が必要とされたのである。


よいアイデアはすぐに浮かんだ。銀行の設立である。

1865年3月、「サッスーン洋行」、「ジャーディン・マセソン商会」、「デント商会」らは15人の代表発起人を決め、資本金500万ドルを投じて香港に「香港上海銀行(HSBC)」を設立した。サッスーン・グループのアーサー・サッスーンら8人が理事会役員に就任し、1ヶ月後には上海で営業を開始した。

「香港上海銀行」の最大の業務は、阿片貿易で儲けた資金を安全かつ迅速にイギリス本国へ送金することであった。

 

「香港上海銀行(HSBC)」.png「香港上海銀行(HSBC)」2.png 

1865年に、ロスチャイルド一族のメンバーであるイギリス系
ユダヤ人のアーサー・サッスーン卿によって香港で創設され、
 1ヶ月後に上海で営業を開始した「香港上海銀行(HSBC)」

この銀行の設立当初の最大の業務は、アヘン貿易で儲けた
 資金を、安全かつ迅速にイギリス本国へ送金することであった。

この銀行は、第二次世界大戦前、上海のバンド地区を中国大陸の本拠と
していたが、1949年の中国共産党政権成立後の1955年に、本社ビルを
共産党政権に引き渡した。その後、中国各地の支店は次々に閉鎖された。

しかし現在、この「香港上海銀行」は、英国ロンドンに本拠を置く世界最大級の
銀行金融グループに成長している。ヨーロッパとアジア太平洋地域、アメリカを
中心に世界76ヶ国に9500を超える支店網をもち、28万人の従業員が働き、
ロンドン、香港、ニューヨーク、パリ、バミューダの証券取引所に上場している。

時価総額規模では、アメリカの「シティグループ」、「バンク・オブ・アメリカ」に
次ぎ世界第3位(ヨーロッパでは第1位)である。現在、香港の「中国銀行」
及び「スタンダード・チャータード銀行」とともに香港ドルを発券している。



1860年代から70年代にかけて、彼ら(ユダヤ系の「サッスーン洋行」など)を通して中国へ輸出されたインド産阿片は、毎年平均で8万3000箱にのぼった。一箱は約60kg。

国内生産の阿片が増加するにつれて、外国阿片は少しずつ減少していくが、ピークの1880年代には10万5507箱が輸出され、上海には年2万2000箱が送り込まれた。

上海の町には、阿片の濃い煙が充満した

阿片は街のいたるところで合法的に売られ、客はいつでも手軽に買うことができた。
 


 


◆時代の流れが変わったのは、1906年のことだった。


アメリカの宣教師たちが阿片生産の禁止を国際世論に広く呼びかけると、国際的に阿片貿易への非難の声が高まった。清朝政府は、「イギリスがもし輸出を削減するなら、中国も阿片の生産と喫煙を禁止するしと発表。イギリスも、「10年禁絶を目標に毎年段階的に削減していく意向がある」と応じ、翌年には「中英禁煙協約」が交わされた。

1911年、ハーグで「国際阿片会議」が開かれ、世界の潮流は阿片の輸出禁止と生産禁止という明るい未来へ向かって、栄えある第一歩を踏み出した。いや、踏み出そうとした。

ところが、そうなっては都合の悪い人たちがいたのである。



外国商社は色めきたった。10年という期間を限定されたことで、今のうちに儲けるだけ儲けておこうと考えた。


「サッスーン洋行」ら上海の阿片商社は即座に「洋薬公所」を結成すると、上海の輸入阿片の総量をコントロールする一方、潮州商人と協定を結んだ

「洋薬公所」といえば聞こえはよいが、つまり「阿片商人の大連合会」である。外国人貿易商たちはペルシア産とインド産阿片の独占輸出体制を築き、流通ルートは潮州商人一本に絞られた。

無論、阿片の価格は急騰した。最高値のときには、なんと銀の7倍まで跳ね上がったというから、驚くほかはない。



◆阿片商人の悪辣さはこれに止まらない。


10年の期限が近づくと、「洋薬公所」は関係ルートを使って時の政権、北京政府と交渉し、残りの阿片を全部買い取らせることに成功した。1919年、北京政府は阿片を購入後、公開処分した。

こうして世界が監視する中で、中国の「阿片禁止令」は着々と執行されることになった。このまま順調にいけば、もしかしたら中国からも地球上からも阿片は一掃され、クリーンで美しい世界が訪れたかもしれない。

だが、事態はそうはならなかった。

禁令とは、すなわち商売繁盛だ──。 〈中略〉

アメリカで1920年に制定された「禁酒法」が、この言葉を生んだのだ。政府が酒類の醸造と販売を禁止したことで、シカゴを縄張りにしたアル・カポネのギャング団が密造酒を裏取引し、暗黒街の犯罪が急上昇してしまったのである。

時期も同じ1920年、中国では阿片が禁止され、同じような事態が生じていた。阿片の密輸に火がつき、以前よりもかえって大量の阿片が出回る事態になったのだ



◆当時上海に滞在していたフランス人弁護士リュッフェの試算によると、1920年代後半の全中国の阿片消費量は、毎年7億元にのぼったという。


「中華国民禁毒会」の集計ではさらに多く、毎年10億元を消費し、そのうち国産阿片は8億元、外国阿片は2億元であったという。また、上海の阿片貿易による収益は毎年4000万元以上、あるいは7、8000万元から1億元にものぼると推測される。

なにしろ密輸だから正確な統計はないが、阿片の消費量が、膨大なものであったことは間違いないだろう。