●イスラエル共和国内には「マツペン」と呼ばれる組織があったが、この組織は1962年にイスラエル共産党を出た人々を中心に結成されたもので、シオニズムに反対するイスラエルの左翼組織として、やがて海外でも名を広めた。

「パレスチナ人とイスラエルのユダヤ人のシオニズムからの解放は、小さな地域からの解放からは達成できない、全アラブの課題である」という彼らの分析は、アラブ諸国の解放運動に大きな影響を与え、海外支部は各国の解放運動の人々の交流の場となっていった。

 
●このマツペンのメンバーのほとんどは、イスラエルのユダヤ人であるが、パレスチナ人の活動家も参加していた。マツペンは、シオニズムが西欧植民地主義の 後ろ楯でユダヤ人だけのための国家建設を目指したため、必然的にパレスチナ人に対する差別を生み出したと批判。「ユダヤ人とパレスチナ人の共存できる社会 の建設」をスローガンにして、1967年の第3次中東戦争以降は、占領地の即時返還を求めて活動していた。

彼らのデモは群衆に蹴散らかされ、占領反対の意見広告は各新聞から掲載を拒否されたものの、マツペンの理論にはパレスチナ人との共存の可能性があった。


●しかし、マツペンは1972年に分裂を始め、ダイナミズムを失っていった。その一番の原因は、パレスチナ人との共同の闘いを具体的に作り上げることに失敗したことにあるという。元マツペンのエウド・エンギルは次のように語る。

「我々は進歩リストという運動を作った。しかしこれからは何も生まれなかった。目的は共存なのに、組織内ではユダヤ 人とパレスチナ人はバラバラだった。そして選挙で3000のユダヤ人票と2万のパレスチナ人票を集めたが、パレスチナ人は、こんなに得票に差があるのに、 なぜユダヤ人とパレスチナ人の資金割りを同じにしなければならないのだと抗議し、対立した。そして進歩リストは崩壊した。後にユダヤ人がPLOとの共闘を 申し入れたときも、彼らは自分たちだけでやりたいと言ったのだ。」


●マツペンの分派の一つは激しいやり方で“共存”を追求した。ダウド・トゥルキというキリスト教徒のパレスチナ人と、ウ ディ・ヤディブというイスラエル軍落下傘部隊の将校は、1972年のマツペン分裂とともに地下戦線の活動に入り、本気で「パレスチナ・ユダヤ革命軍」を作 ろうとした。

このユダヤ将校ヤディブはパレスチナ・ゲリラ組織と接触するために、キプロスを経てシリアに入り、武器と資金の調達 を要請した。しかし会見は不成功だった。彼はイスラエルに戻ったところを逮捕された。一説には、手引きした人間がイスラエルの情報機関の人間だったと言わ れている。

結局、「パレスチナ・ユダヤ革命軍」構想は頓挫し、ユダヤ将校ヤブィブとパレスチナ人トゥルキの2人は「国家反逆罪」で告訴され、17年の実刑判決を受けたわけだが、これはイスラエル史上初めて、ユダヤ人とパレスチナ人に同じ量刑が言い渡されたケースであるという。



●さて、話が変わるが、1961年にアメリカからイスラエル共和国に移住した、ジャック・バーンスタインというアシュケナジー系ユダヤ人は、イスラエル共和国で生活を始めた時から、何か否定できない大きな違和感・失望感を抱くこととなったという。

彼がイスラエル共和国で見出した真実は、イスラエル共和国が「迫害されるユダヤ人のための宗教的避難地」などではなく、狂信的かつ急進的なシオニストの“警察国家”であり、威圧的な人種差別主義者の縄張り以外のなにものでもないということであったという。

落胆と失望にさい悩まされた彼は、6年半の滞在ののち、アメリカに戻り(1967年12月)、『人種差別主義的マル クス主義的イスラエルにおける、一アメリカ・ユダヤ人の生活』(1984年)、『中東に突き刺さったトゲ、さらばイスラエル』(1985年)というユダヤ 内部からの“告発の書”を公刊した。(ちなみに彼はイスラエル滞在中に、イラクから来たスファラディ系ユダヤ人の女性と結婚した)。


●彼は「アメリカの福祉と平和のために、アメリカはイスラエル共和国の無神論的マルクス主義的指導者たちを支持することを中止しなければならない。さもなければ、更に破滅的な結果がアメリカに襲いかかるだろう」との結論に達したという。

現在、彼はシオニストたちがアメリカに敵対的で、アメリカの奴隷化を企図しているという立場から、「親アメリカ・ユダヤ協会」というアメリカを愛する人達による組織を創設し、反シオニズム運動を展開している。



●ところで、初期のシオニストの中に、ユダヤ人の良心を燃え立たせようと試みた人々がいたことも見逃すことはできない。

その中の一人が、ヘブライ大学初代学長のユダ・マグネス博士である。博士は、アラブ人とユダヤ人の友好を目指す「イ フド運動」の実現に協力したが、イスラエル建国に先立つ激しい対立の間、アラブ・ユダヤの両民族の“共存”を大胆に支持して、彼は次のように述べていたの である。

「我々は唯一のこと、すなわちアラブ人たちのことを除いて、全てのことを考慮してきたように思う。……しかし、ユダ ヤ人たちが、自分たちの直面する最も重要な問題として、アラブ人問題を念頭に入れるべき時がやって来た。もし我々がこの生活圏に住むことを望むのであれ ば、我々はアラブ人と一緒に住まなければならない。」


 

●ユダヤ系アメリカ人のマーティ・ルーゼンベルスは、現在、ヨルダン川西岸のラマラ市にある人権擁護団体「アル・ハック」で、パレスチナ人の労働問 題の調査を担当するスタッフとして勤務しているが、彼の少年時代は両親の影響もあって、熱狂的なシオニストであったという。彼は極右のシオニスト組織 「JDL」の集会や行事に進んで参加していたという。

 


マーティ・ルーゼンベルス

 

●彼がシオニズム運動から離れたのは、大学生のときであった。彼は大学時代にパレスチナ・アラブ人学生と出会うことで、パレスチナ問題の真相を知ら された。シオニストの彼にとって、それは大きな衝撃だった。初めはどうしても信じられなかったし、信じたくもなかった。しかし彼らと話をすればするほど、 シオニストの立場を維持しそれを正当化していくことができなくなっていったという。

「それまで私にとって、パレスチナ人とは地平線に見え隠れする幽霊、現実の人間とは程遠い悪魔、または残酷なテロリストでした。しかし実際に会った パレスチナ人は全く違っていました。テロリストのように銃を下げてもいません。彼らは人格を備えた、現実の人間だったのです。」

「彼らはパレスチナの町や村に住み、独自の文化を持つ人々でした。パレスチナは『人間の住んでいない土地』ではなく、そこに既に農耕社会が存在して いたのです。ある地域で、ユダヤ人が砂漠を緑の農園に変えたのは事実です。しかし、それは問題の核心ではありません。シオニストたちはそれを強調すること で、パレスチナの土地が『捨てられた土地』であり、ユダヤ人が保有する権利があるのだと外に宣言したいのです。」


●更に、彼は次のように語る。

「シオニストたちは、反シオニズムと反ユダヤ主義とを混合してしまいます。それは反アパルトヘイトと反白人運動とを混合するのによく似ています。」

「反シオニストという私の現在の立場は、決して、私の『ユダヤ人』としての意識を弱めるものではありません。むしろ一層強く『ユダヤ人』であること を意識するほどです。私は『ユダヤ人』であることを隠すつもりはありません。エルサレムでのユダヤ伝統工芸品の展示会へ出かけると、その素晴らしい文化遺 産に感動し、自分がユダヤ人であることに誇りを抱きます。」

「私がユダヤ人として生まれユダヤ人として育ったことは、私の思想形成の上で大きな要素を占めています。それは私の誇りです。だからこそ、イスラエ ル占領地のユダヤ人入植者たちが『ユダヤ主義』を歪曲し、『シオニズム』として政治的に利用し、しかも私と同じ『ユダヤ人』の名を語っているのを見ると、 激しい憤りを覚えるのです。『ユダヤ主義』全体が『シオニズム』によって破壊されています。大半のパレスチナ人は『シオニズム』以外の『ユダヤ主義』を知 りません。自分たちを抑圧し圧殺するイスラエル人の姿を『ユダヤ主義』と結び付けてしまう。それが私を当惑させるのです。」



●現在、パレスチナの支援活動をしているユダヤ系アメリカ人のバーバラ・ルーバンも、かつては熱烈なシオニストであったという。

1967年、イスラエルが周囲のアラブ諸国の大軍をほんの6日で打ち破った第三次中東戦争は、彼女を狂喜させたという。また、1982年、イスラエ ルがレバノンに侵攻し、爆撃や虐殺で多数のアラブ人、とりわけパレスチナ人が殺戮された事件も、当時のルーバンにとってユダヤ人としての良心を痛める出来 事ではなかったという。

彼女は「アウシュヴィッツに代表されるユダヤ人の迫害は、ユダヤ人には二度と起こってはならない。そのためには、ユダヤ国家イスラエルは強大であり 続けなければならない。レバノン侵攻もそのためには必要だった」、というシオニズム特有の論理に染まっていた。それは、自分の成長の過程において最も重要 な影響を与えた両親から教えられたことだったから、それが間違っているかも、と疑うことなど、当時の彼女には考えも及ばなかったという。

 


バーバラ・ルーバン

 

●そんな「熱烈なイスラエル支持者」のルーバンの転機となったのは1984年、大統領候補として立ったジェシー・ジャクソンとの出会いだったとい う。ジャクソンとの出会いが、彼女のイスラエル観とパレスチナ人観を180度変えた。ジャクソンの選挙運動に参加するまで、彼女は一度もパレスチナ人と出 会ったことがなかった。彼女の描く「パレスチナ人」とは、「ユダヤ人の赤ん坊を殺戮するテロリスト、それを代表するアラファト」のイメージであった。だ が、選挙運動を通して知り合ったパレスチナ人は、そんな「残忍な怪物」ではなく、ユダヤ人と同じように教養のある、人間性豊かな人々であったという。

しかしイスラエルの政策に反対することは「反ユダヤ主義」ではないことを理解するまでに長い期間を要したという。


●1987年、ルーバンは、イスラエル占領地の調査団の一員としてイスラエルを訪問する機会を得た。彼女は自分の目でパレスチナ難民の現実をまざまざと見た。

「信じられなかった。ただ、信じられない出来事だった…」

占領地で見た出来事をルーバンはそう形容した。

彼女がパレスチナ人の家に招かれて食事をしている時、突然、上空をイスラエル軍のヘリコプターが旋回して、上空から催涙弾が投下されたという。そし て村人が逃げまどう間、今度は実弾を地上に向けて乱射し始め、人々は催涙ガスのために家の中にいることもできず、かといって銃撃のために外に出ることもで きず、おろおろするばかりであったという。


●また、彼女は目の前で、視察団を歓迎する村人のデモをイラスエル兵が急襲し、デモに参加していた12歳の少年が、イスラエル兵に意識を失うまで殴られるのを、目撃したという。

現場の写真を撮った瞬間、兵士たちが、今度はその彼女たちの視察団の所へ走り寄ってきてカメラを強奪し、中からフィルムを抜き取ってしまったが、こ の時、彼女は蛮行を働くその兵士たちをまじまじと見て、「これが、かつて誇りに思ったイスラエル兵の素顔なのか」と胸が潰れる思いがしたという。


●また、占領地のあちこちで、銃弾で片目を奪われた赤ん坊や、片腕をなくした少年を抱く母親、息子を投獄された母親、子供や夫を撃ち殺された母親などに接するに従い、1人の母親である彼女の中に抑えがたい怒りがこみ上げてきたという。


●帰国後、ルーバンは一人の人間としての良心に突き動かされ、活動を開始した。傷ついたパレスチナ人の子供たちの医療活動を支援するため、彼女は個人や団 体組織に寄金を呼びかけ、「中東の子供たちのための同盟」を設立した。この理事には下院議員や大学教授、さらに作家や映画俳優らが名を連ねた。

この「中東の子供たちのための同盟」の共同推進者となったハワード・レビンもユダヤ人である。彼はサンフランシスコ市のある新聞社の記者であった。 「中東の子供たちのための同盟」設立の記者会見に取材にきたレビンは、ルーバンの主張と行動に共鳴し、ついに記者の職を投げ出し、この運動に飛び込んだ。 「私はユダヤ人だが、イスラエルのやり方、シオニズムの考え方にうんざりしていた。私もユダヤ人の一人として、何かをやらなければと思っていたところだっ たんです」とレビンはルーバンに協力を申し出たのだった。

 


反シオニズムのデモに参加する
バーバラ・ルーバン

「私たちはイスラエルの占領に反対するユダヤ人」
と書かれたプラカードを持っている

 

●イスラエルの政策に反対する態度を明らかにしたルーバンに、主流ユダヤ組織は噛み付いてきた。

イスラエルのために議会工作をするイスラエル・ロビー団体「AIPAC」が、サンフランシスコ市で、大統領候補やその選挙運動員らを招いて開いた パーティーに参加したときのことだ。演壇に立った候補者たちは、自分がいかに議会でイスラエルを支持してきたかを訴えた。ユダヤ人から選挙資金と票を引き 出すためである。一方、いまアメリカが抱える大きな社会問題である“ホームレス”の問題について語る者はほとんどいなかった。

ジェシー・ジャクソンの選挙運動員として参加したルーバンはその席で、社会の底辺で生きる民衆の救援のために活動するジャクソンについて語り、またパレスチナ人を抑圧するイスラエルの政策を非難した。

演壇から降りた彼女は、親イスラエルのユダヤ人たちに囲まれた。

「ユダヤ人なのになぜイスラエルの政策に反対するのだ。お前は“自己嫌悪するユダヤ人”だ!」と、彼らは、ルーバンを口汚く罵ったのだった。


●ルーバンは語る。

「シオニストはイスラエルに対する不満や非難を、ユダヤ人の間だけにとどめておきたいんです。もし公にしたら、反ユダヤ主義が堰を切ったように吹き 出し、それが全世界に蔓延すると、イスラエルが破滅してしまうと考えてしまうんです。しかし、ユダヤ人が自ら非難の声を上げなければ、むしろイスラエルは さらに孤立し、本当の反ユダヤ主義が世界中に広がってしまう。これこそがもっと危険なことなんです。ユダヤ人の沈黙がそれを許してしまう。私が最も嫌悪す るのは、ユダヤ組織が『我々ユダヤ人はイスラエルを守らなくてはならない』という名目で、イスラエル非難の声を封じてしまうことなのです。」