●北イスラエル王国を構成していたイスラエル10支族が消息を絶ったのとは対照的に、イスラエル2支族は「目に見える歴史」を歩むことになったわけだが、それはそのまま「迫害され続ける歴史」を意味していた。

南ユダ王国を滅ぼした新バビロニア王国が、アケメネス朝ペルシア帝国によって滅ぼされると、ペルシア王の寛容な宗教政策によって、バビロンに捕囚されていたイスラエル2支族(ユダ族とベニヤミン族)は、パレスチナの郷土へ帰還することができた。

しかし、かつての南ユダ王国の首都エルサレムにあって、タビデ王統のシンボルであったソロモン神殿は荒廃しきっていた。そのため帰還を果たしたイス ラエル2支族たちは、ソロモン神殿を再建し、徹底した契約厳守の律法主義に基づく「新ユダヤ教」を作った。彼らは神に選ばれて契約を結んだ唯一の民族とし ての誇りを頑強なものとし、民族的結束を固めた。

イスラエル10支族と完全に離別してしまった彼ら(イスラエル2支族)は、この時を境にして“ユダヤ人”と呼ばれるようになったわけである。

とまあ、ここまでが前回紹介した部分で、ここからが今回紹介する部分です(^_^)。

 

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●ローマ帝国が台頭し、ローマ帝国から派遣されたエドム人(非ユダヤ人)のヘロデがユダヤの王として君臨すると、選民としての誇り高いユダヤ人たちの多くは、統治者であるローマ帝国に従おうとしなかった。ユダヤ人の間でもローマ支持者と不支持者との争いが絶えず、「スカイリ(短剣党員)」という過激な集団もはびこった。


●ユダヤ人の分裂は政治的分裂にとどまらなかった。イエスと名乗る謎の青年が登場し、新しい神の法を説き始めると、今度はイエスをメシア(救世主)として認めるか認めないかで宗教的大分裂を起こしてしまった。ちなみに、当時のユダヤ教には祭司を頂点とした「サドカイ派」や「パリサイ派」、「エッセネ派」といった宗派が存在していたが、イエスの登場ほどユダヤ人の宗教的分裂を決定的にしたものはなかった。

 

 
(左)イスラエルの地図 (右)死海の近くにあるクムランの僧院跡。
この地を拠点にして宗教活動をしていた「クムラン教団」は、
ユダヤ教の一派「エッセネ派」に属する教団である。

 

●イエスの登場による宗教闘争は純粋にユダヤ人同士の身内の争いであったといえる。なぜならば、イエスの12人の弟子は全てユダヤ人であったし、イエスに帰依した民衆のほとんどはユダヤ人であったし、更に彼らはあくまでもユダヤ教の範囲内でイエスを信じていたからである。

よって一般に言われているような「イエス率いる原始キリスト教団は最初からユダヤ人と対立していた」という認識は正しくないことになる。

正確には、イエス派ユダヤ人と保守派(パリサイ派)ユダヤ人が対立していたと表現すべきであろう。パリサイ派は、モーセがシナイ山で授かった神との契約(旧約)に基づく「律法主義」に固執していたために、イエスが説いた「新しい神との契約(新約)」を受け入れるのを拒否し、イエスと激しく対立していたのである。


●また、「イエスはユダヤ人によって殺された」という表現も正確ではない。イエスもユダヤ人だったからである。イエスはユダヤ教の中に新しい宗派「イエス派」を形成し、ユダヤ人のユダヤ人によるユダヤ人のための宗教改革を実施したと言える。そしてイエスのユダヤ教改革は、その後、ユダヤ人という民族の枠を超えた世界的な宗教改革にまで発展していったのであり、ローマ帝国が正式にキリスト教をローマ人の“国教”として認めたのは、イエスの死後300年ほど後のことである。

 


イエス・キリストの磔刑像

 

●さて、イエスが公開処刑されてから約30年後の紀元66年、ユダヤの地の統治者の暴虐をきっかけに熱心党(ゼロテ党)というユダヤ人レジスタンスグループがローマの守備隊を襲い、ユダヤ人とローマ軍は本格的な戦い(ユダヤ独立戦争)を開始した。ローマ帝国内のほとんどのユダヤ人は武装蜂起し、ユダヤ人の独立を試みたのである。

しかし、ローマ帝国軍の軍事力には圧倒的なものがあった。

ネロ皇帝が初動させたローマ軍は、瞬く間にユダヤ人の大反乱を制圧(AD68年)し、ウェスパシアヌス帝の息子ティトゥス将軍はエルサレムを完全制圧(AD70年)。エルサレムは「嘆きの壁」を残し、徹底的に破壊された。

この戦争(第一次ユダヤ戦争)のユダヤ人犠牲者数は60万人とも100万人ともいわれている。

 


ティトゥス(AD39~81年)

父ウェスパシアヌス帝の命を受け、
エルサレムを占領し、徹底的に
破壊した(AD70年)


 
(左)「ユダヤ戦争」の勝利記念として建立されたティトゥスの凱旋門。ローマに現存する最古の
凱旋門で、アーチの内側には隙間なくレリーフが施されている。(右)はアーチ内側にある
レリーフの1つで、ユダヤ教の象徴的存在である七枝の燭台(メノラー)が見える。

ティトゥスは、「ソロモン第二神殿」の宝物を戦利品とし、反乱軍の指導者を
捕虜にして、ローマに凱旋した。エルサレムは「嘆きの壁」を残し、
徹底的に破壊された。この戦争のユダヤ人犠牲者数は
60万人とも100万人ともいわれている。

 

●更に紀元73年、967名のユダヤ人が7ヶ月も籠城し続けていた難攻不落の要塞「マサダ」を、8000ものローマ帝国軍が総攻撃。追いつめられたユダヤ人は、2人の老婆と5人の子供を残し、全員自害して果てた。

そして紀元132年に、ユダヤ人による最後の反乱(バル・コフバの反乱)が鎮圧されると、それをもってユダヤの対ローマ戦争は事実上終結し、ローマ帝国は「ユダヤ州」を「シリア・パレスチナ州」に変名。

これを機にパレスチナを去って外国に移り住むユダヤ人が急増した。これは「ディアスポラ(ユダヤ人の離散)」と呼ばれている。

 


ローマの大軍に囲まれたユダヤ反乱軍960名が、
2人の老婆と5人の子供を残し、集団自殺したマサダの砦。
この戦い以後、ユダヤ人は祖国を失い流浪の民となった。

 

●なお、一連のユダヤ戦争が起こる直前に、イエスの密命を帯びた大量のイエス派ユダヤ人集団(エルサレム教団)が、パレスチナを脱出して、ある地域へ向かって旅立っていたと言われている。彼らの“敵前逃亡行為”は他のユダヤ人たち(パリサイ派集団)から「裏切り者」として非難されていたそうだ。



●ローマ帝国の迫害によって離散の民となったユダヤ人は、ユダヤ教保守派(パリサイ派)の生き残りを中心に、ガリラヤやティベリアに「サンヘドリン(ユダヤ長老議会)」を 設置した。サンヘドリンは総主教、教学院長、最高法廷議長の三頭制度で成り立っていた。また、イエス生誕以前から自発的に諸外国で暮らしを始めていた離散 ユダヤ人もいた。彼らはヘレニズム・ローマ時代に発展を遂げ、地中海やオリエントなどに広がっていた。その中心がバビロニアやエジプトのユダヤ人共同体で ある。


●ユダヤ人たちは離散の地でユダヤ人の生活原理の規範ともいうべき『ミシュナ』(紀元2世紀)、『エルサレム・タルムード』(紀元4世紀末)、『バビロニア・タルムード』(紀元5世紀末)を結集した。

『旧約聖書』を補完するものとしての『タルムード』の発生史は、すなわちユダヤ教の発 展史である。離散時代のユダヤ社会はかつての神殿祭祀ではなく、「シナゴーグ(ユダヤ教会堂)」のラビ(ユダヤ教指導者)による『旧約聖書』や『タルムー ド』の研究解釈に切り替わった。このシステムは、現在のユダヤ教にそっくりそのまま受け継がれている。


●この『タルムード』を中核に据えた「新ユダヤ教」を信仰し始めたユダヤ人には、もはやかつ てのような預言者も神の声もなくなった。もっとも、より人間が理知的な時代を迎えたためでもあろう。イスラエル10支族との完全離別、新バビロニア王国に よるソロモン第一神殿の破壊やローマ軍との大戦争を経験し、マイノリティー化した彼らは、極度の民族的死活問題に直面していた。

そのために『タルムード』にはより現実的な利益を求める生活指向が盛り込められた。と同時に、非ユダヤ人のことを「ゴイム(家畜)」と表現し罵るなどの、故意に歪められた民族的排他性と独善的選民思想が付随し、他民族に反ユダヤ感情を植え付ける一因となった。


●ローマ帝国に大敗北をきし、パレスチナの地から追放されたユダヤ人は、国を持つことも神殿を再建することもできず、第二次世界大戦後の1948年にイスラエル共和国が建国されるまでの約1800年間、世界各地で差別と迫害を受ける離散生活(ディアスポラ)を強いられることになったわけであるが、彼ら“ユダヤ人”という集団は、この長い長い離散生活の中で、イスラエル2支族としての正統性も純血性も失っていったのである……。

 

 
エルサレム旧市街の神殿の丘に位置する「嘆きの壁」。壁は全長約60mで、
高さは約21m。壁の石の隙間には、その祈りの言葉が書かれた紙切れがぎっしり
詰まっており、夜になると夜露がたまり、ヒソプの草を伝って滴り落ちる。それが涙を流して
悲しむユダヤ人のようでもあることから「嘆きの壁」と呼ばれるようになったという。